7. 會田先生のメダカ研究とその業績

  • ○ 着手されたメダカの体色遺伝研究

    父の死により熊本から帰郷された直後に、続いて幼い兄姉を残して夫人が病死され、先生は男やもめとなり、不自由な生活をしておられた頃、苦境と孤独の中から、メダカの体色遺伝の研究を思いつかれた。自宅の庭に飼育場を造り、そして先生 42 才の 1913(大正2)年から研究を始められた。その頃は、島津製作所の顧問をされ、標本部の仕事を委嘱されていた関係で、社長の島津源蔵と知り合いとなり、二人は随分と馬が合い、資金についても島津社長より豊かな援助を受けて、自宅に設備をつくり、のびのびと研究に着手された。先生は兼ねてから生物の寿命とか、遺伝に興味があり、京都へ帰郷されてからは植物では、テンジクアオイの赤と白をかけて F1 に桃色を得るなどの実験をされたことがある。しかし、植物は広い場所や温室が必要であり、またネズミなどの小動物では沢山飼うのが困難である。メダカは小さくて鉢でも飼えること、体色の変種があること、性別が判然としていること、当時、魚類の遺伝研究する人が少ないことなどを理由にメダカを実験材料として選ばれた。

    水槽は地中に作り付けで、10 個 2 列(写真 17)20 個分が 1 組をなし、2 組であったが 1 組は戦時中埋めて, その後に菜園にされたとのこと。この飼育場は先生が逝去された後も保存されていた。

    紅鉢は京都で友禅布の染色用として作られた鉢と伺っているが、先生の研究でのメダカの交配・産卵・稚魚の成育に使用する約 200 個の鉢が用意されていた。この鉢は先生の没後、遺品として遺族より山本時男先生の名古屋大学へ 45 個と私竹内個人に 40 個が贈られた。先生は 80 才余に至る 40 年間メダカ研究を自宅のこの場所で行われた。時男先生が撮影された (1953) 写真は後世に示す歴史的に貴重なメダカ飼育場の姿である。

    図 8

    図 8. 私の記憶に残っている先生宅の見取り図

    写真 17

    写真 17. メダカの飼育場 1953 年 11 月(山本先生写す)

    写真 18

    写真 18. 會田先生が使用した紅鉢

    自宅の南側の庭(図 8.)に 40 個のコンクリートの水槽(2 尺平方、深さ 1.5 尺)をつくり、多数の紅鉢(経 30 ㎝、深さ 10 ㎝)(写真 18)を用意され本格的な研究をはじめられた。

  • ○ 研究成果を米国遺伝学雑誌 Genetics へ

    さて、會田先生が 1913(大正 2 年)にメダカの遺伝研究に着手され Genetics に論文を発表されるまでに 8 年間の歳月を要した。その間研究の成果は何処にも発表されず、膨大な数のメダカを相手に黙々と研究に没頭された。ちなみに、先生の 40 年に及ぶ遺伝研究で毎日 weather note にその日の天気・気温・水温を記録し(写真 19)、20 個の水槽に交配番号とその交配実験で得た稚魚数等結果を纏めたメモを毎年記録し(写真 20)、最終的にはその年の実験結果を克明に記録した “Result of (year) Breeding’s”(写真 21)として保存された。(註:膨大なこれらの記録資料の一部は竹内が遺族より寄贈を受け保存している)

    写真 19-1

    写真 19-1. 毎日記録された weather

    写真 19-2

    写真 19-2. 拡大された weather note の一部

    写真 20

    写真 20. 20 個の水槽で飼育されている稚魚を示す記録メモ

    先生は徹底的な研究態度で、発表が遅れても確かなものをという信条を持っておられた。先生に大きな転機が訪れたのはマイマイガの性決定の機構を研究し、生理遺伝学分野の開拓者として有名な R.B.Goldshmidt(ゴルトシュミット)博士(写真 22)が東京大学の招きで 1924(大正 13)年に来日し東京大学農学部で講義しており、誰の紹介か不明であるが来日中に京都の會田邸を訪問して、先生の研究の内容を見聞し詳しく飼育場を見学した。ゴルトシュミットは先生の斬新な研究内容と徹底した研究記録、そのうえ日常の研究内容が全て正確な英文で記録されていることに驚嘆した。

    写真 21

    写真 21. 先生の "Result of (year) Breeding's"

    写真 22

    写真 22. ゴルトシュミット博士

    ゴルトシュミット博士は先生の研究結果を米国遺伝学雑誌の Genetics で発表するよう薦め、その労をとられた。その結果、先生は Genetics に 1921(大正 10)年、1930(昭和 5)年、そして 1936(昭和 11)年に計 3 編を発表された。

    (子息の雄次先生は父が研究の発表は,日本相手じゃ仕方がないといって、アメリカの専門雑誌に寄稿していた。中学以来ほとんど英語で授業を受けていたから英語は大変うまかったと、中央公論に記述されている。)

  • ○ 第 1 論文の概要

    Genetics に発表された先生の 1921 年の論文は第 1 論文、同じく 1930 年の論文を第 2 論文、そして 1930 年の論文を第 3 論文と呼称されている(写真 23)。第 1 論文の表題は “On the inheritance of color in a freshwater fish, Aplochlus latipes Temminck and Schlegel, with special reference to sex-linked inheritance. で 1921 に Genetics 6巻の 554~573 頁に亘る長文の論文であった(写真 23)。第 1 論文の内容を要約すれば、メダカの体色を支配する主な遺伝子は優性遺伝子が 2 種類あって、その 1 つは体色を黒(野生)にする B 遺伝子、他は赤くする R 遺伝子であり、その他に体色を黒ブチ(黒斑)にする B’ 遺伝子があることがわかった。その結果、体色を支配する因子はホモの場合の遺伝子型は褐(野生型)BBRR、青 BBrr、緋(橙赤)bbRR,、白 bbrr、黒斑緋 B’B’RR 、黒斑白 B’B’rr と確立した。B, B’, b は常染色体にある複対立因子で、黒色素(メラニン)形成を支配し、優劣関係は BB’b である。R は桶橙色色素(カロチノイド)の取り込みを支配し r はその劣性因子である。学会にセンセイションを巻き起こしたのは Rr が性染色体にある対立因子であるという発見で、正常のメダカの性決定の型が雌がホモ (XX) で、雄がヘテロ (XY) であることを確立した。

    写真 23-1

    會田の第 1 論文の表題の頁

    写真 23-2

    會田の第 2 論文の表題の頁

    写真 23-3

    會田の第 3 論文の表題の頁

    写真 23. 會田先生の 3 編の論文が Genetics に 1921 年、1930 年と 1936 年に発表された。

    図 9

    図 9. 會田第 1 論文の概要と要約

    それだけでなく Y 染色体にも優性の R 因子があること、X と Y の間に交叉が起こるという発見である。

    白 (bbrr) ♀ × ホモの褐 (BBRR) ♂の F1BbRr で表現型は褐色となるが、F2 では褐 (BR) 9 : 青 (Br) 3 : 緋 (bR) 3 : 白 (br) 1 の比で分離したが、r をもつ青と白は ♀ ばかりであった。この場合は P1 の白が bbXrXr で褐 ♂ がBBXRXR とすると説明がつく。すなわち F1BbXrXR ♀ と BbXrYR♂ であるから、F2 の褐 (BR) と緋 (bR) には ♂ も ♀ もできるが Yr という染色体がないから、青 (Br) と白 (br) は ♀ (XrXr) ばかりとなる。注目すべきことは優性 R が X だけでなく、Y にもある点である。例えばこの場合の緋の ♀ は bbXRXRbbXrXR で緋の ♂ は bbXRYR である。

    1915 年の実験で白 ♀ (bbXrXr) × ホモの緋 ♂ (bbXRYR) の F1 はみな緋 (bbXrXR ♀, bbXrYR ♂) となり 1916 年に F2 で緋 3 : 白 1 に分離したが、F1 緋 ♂ (bbXrYR) を再び白 ♀ (bbXrXr) に戻し交配した。この交配系では緋 ♂ : 白 ♀ が 1 : 1 に分離するはずであるが、実際に緋 ♂ 519 と白 ♀ 501 が得られたが、ただ一尾だけ例外の白 ♂ がでた。優れた観察力と注意力である。かって英国の遺伝学者 BATESON は「汝の例外を宝にせよ」というたが、先生もこの一尾の例外白 ♂ を宝にした。これは Xr と YR との間で交叉 (crossing over) が起こり、Xr の r が Y に移り Yr 精子ができて、Xr 卵と受精して出来た XrYr ♂ であった。この一尾の白 ♂ がその後の先生の研究の白 ♂ の祖先となり、XRYr ♂ を作るにも用いられた。

    さきの褐と白の交配では白 ♀ × 褐 ♂ であったが、白 ♂ が得られたので、褐 ♀ (BBXRXR) × 白 ♂ (bbXrYr)をやられた。F2 で体色は褐 9 : 青 3 : 緋 3 : 白 1 に分離することは前の場合と同じであったが、性に関しては逆になり、青 (Br) と白 (br) が ♂ ばかりであった。

    図 10

    図 10. 第 1 論文のメダカ原色版と R 遺伝子と性染色体構成の要約

    その当時の遺伝学会風靡していたのは MORGAN を中心とするショウジョウバエの研究であった。この動物の Y 染色体は空虚で遺伝子がないと考えられていた。メダカやグッピーの Y に遺伝子、しかも優性因子があるという先生と WINGE (1922) の研究はショウジョウバエ学者に衝撃を与えた。

    生物の多様性を無視して、一般化しようとする理念に基づく、例えば MORGAN (1926) は “Y 染色体の遺伝子” の章で、これらの魚の性染色体も本来はショウジョウバエの場合と同様で在ろうが、性染色体に一対の常染色体が付着し、見掛け上の “性染色体” となったものと、苦しい解釈を下した。そして交叉は付着染色体の部分で起こると考えた。

    性染色体の交叉はオスがホモのニワトリで GROODALE (1917) が Z と Z 間の交叉を報告していたが、オスがヘテロの動物で X と Y の交叉の発見は先生 (1921) が最初で、その後 WINGE (1927) がグッピーで報告した。メスがヘテロの動物の W と Z の交叉は飼育型のプラティ魚で GRSER and GORDN (1927) の報告がある。

    會田の第一論文の編集者のキャッスル (CASTLE) は先生の研究を褒め称えて、特別に脚注に付記しているが、先生による最初の重要な発見であって、會田の名声が世界に一躍し有名にすることになった。第一論文にはメダカの原色版を入れたので最初は特別な製版代を請求してきたが、結局キャッスル自身が負担するほどであった。

    (上記第 1 論文の説明 山本時男先生執筆の「遺伝」(1968) 22 巻 1 号 45-48 から一部引用した)

  • 図 11

    図 11. 會田第 2 論文の概要と要約

    ○ 第 2 論文の概要

    続いて 1930(昭和 5 年)Genetics 第 15 巻発表の第 2 論文では、R 遺伝子が Y 染色体から X 染色体に乗り換えるばかりか、逆に X から Y にも乗り換えることを確かめられ、両方向の乗り換えの頻度を比較した。その結果両方向の間には著しい差があって、Y から X の乗り換えの頻度は 1 : 300。その逆は 1 : 1200 で、Y から X への乗り換えの逆方向の 4 倍の頻度でおこることを確かめられた。

    新しく発見された mutants の Fused と wavy についても報告された。

  • ○ 第 3 論文の概要

    1936(昭和 11 年) Genetics に先生の第 3 論文が登載された。この論文は第一、第二論文に示した結論の正否を確かめるための研究成果で, その概要は、XX ♂ と正常 XX ♀ とのF1 はほとんど雌ばかりになり、XY ♀ と正常 XY ♂ とのF1は雌雄が 1 : 3 の割合で生じた。この場合 YY が XY と同じように生存出来るためであって、YY ♂ と思われるものを正常の XX ♀ と交配すると、XY ♂ ばかり生ずることがわかった。

    先生はメダカの性分化の結果をもとにして、動物の性分化機能全般にわたる新しい学説を提唱された。

    図 12

    図 12. 會田第 3 論文の概要と要約

  • ○ 帝國學士院賞受賞と日本遺伝学会名誉会員に

    會田先生によるメダカの体色遺伝の研究は、全く先生の独力によって、日本の遺伝学を世界レベルまで押し上げたものであった。先生の第二論文が発表されたあと、還暦も過ぎた 1932(昭和 7 年)に池野成一郎教授の推薦によって名誉ある帝國學士院賞が授与された(写真 24)。孤高の学者の生涯のなかで、ただ一度の 光のひとときであった。先生はその翌年の日本遺伝学会大会で「メダカの体色について」特別講演をされ、また 1952 年(昭和 27 年)に日本遺伝学会の名誉会員になられた。

    写真 24

    写真 24. 會田先生を帝國學士院賞授与するための池野成一郎博士の受賞審査要旨

  • 写真 25. 遺伝学雑誌 第一巻 三号に発表の會田先生の論文

    ○ 国内で発表された論文

    先生が Genetics に第一論文を発表された翌年 1222(大正 11 年)に日本遺伝学雑誌第一巻 第三号へ “「めだか」の體色の遺伝現象” と題して発表された。

    1932(昭和 7 年)には先生の勤務先である京都高等工芸学校 創立 30 周年記念論文集に、続いて翌年の 1933 年には日本学術協会報告 帝國學士院受賞者 講演録をだされた。いずれの表題も「メダカの體色の遺伝」であった。

  • 写真 26

    写真 26. 京都高等工芸学校創立三〇周年記念論文集(昭和 7 年)

    写真 27

    写真 27. 日本学術協会報帝國學士院受賞者講演録(昭和 8 年)

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